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最 澄
叡山を開いた最澄(七六七〜八二二年)は近江国分寺の行表(ぎょうひょう、七二二〜七九七年、奈良大安寺に学んだ高僧)について得度したのは十四歳の時であった。
延暦四年(七八五年)四月、十九歳の時、東大寺において具足戒を受け、名を最澄と改め正式な官僧となった。
最澄はよほど運が良かったのか行表が南都に影響力を持っていたのか、いずれにしても官僧になるのは大変な難関であった。
そして、戒師が名付けたのであろうか名を最澄と改めた。戒師はよほど人を見る眼が有ったのか、最澄の一途な心が態度、言動にあらわれていたのか、その後の最澄の行動、言動に最も相応しい名前で有る。名は体を現すという諺があるが最澄の生き方を見ると名の通り、一途に澄みきった精神で生き抜いている。
同時代に生きた空海も又しかり。空海は最初は教海と名乗り、次いで如空、そして東大寺で具足戒を受けた時に名を改めたのであろうか空海と名乗った。空海は無限に広がる海と空に自己の可能性を重ね合わせたのであろうか。
東大寺で得度した最澄が見た南都仏教は腐敗しており、時の天皇、桓武天皇は朝政に関与する奈良仏教に嫌気がさし、長岡京に遷都した後であった。最澄も南都の空気に馴染めなかった。
このような折、最澄が東大寺で眼にしたのは鑑真(がんじん、六八八〜七六三年)がもたらした天台仏教の経典であった。この経典によって止観(止観とは正しい知恵を興起させてあらゆるものごとを正しく観察し理解する事)の修行を知った最澄は三ヶ月で腐敗した南都仏教に背を向け、栄達を捨てて生まれ故郷の坂本に帰り、我々が登ってきた谷筋を登り比叡山に入った。
最澄が十九歳の時に著したと伝えられる「願文(がんもん)」には最澄の峻厳な自己内省と衆生救済が示されている。「願文」の書き出しは、
(憂いに満ちている迷いの現代は、ただ苦悩に満ちているだけで安らかなことは無く、騒ぎ乱れている人生はただ思い悩む事ばかりで楽しいことは無い。釈迦牟尼仏の太陽は隠れてから久しく、弥勒菩薩の月はまだこの世を照らしていない。この世の終わりに起こる火災、水災、風災の三種の災難は近づきつつあり、現に、五つの濁りのおこる悪世の深淵に沈んでしまっている。そればかりか、風のように早く過ぎ去る命は、何時までも保つことは困難で、身体は朝露のように、はかなく消えやすい。)
そして、最澄は煩悩を拭い切れず苦悩する自己を吐露し、悲痛なる五つの心願をたてた。
「ここにおいて、愚の中の極愚(ごくぐ)であり、狂っている中の極狂(ごくきょう)であり、心の荒れた、つまらない人間であり、最低である最澄は、上は仏たちの教えに違反し、中は天子の法に背き、下は孝を欠いている者である。わたしは迷狂の心に随いながらも、謹んで五つの誓いを立てた。(体験的な修行をしても理論の研究を怠っているのを愚、理論だけで体験的な修行が出来ていないのを狂と言う)
一、わたくしは六根相似(ろっこんそうじ)の位と云う悟りの境地に
至らぬうちは、俗世間には出ない
二、理を照らす智慧を得るまでは、種々の才芸を習得することは為さない。
三、戒律を完全に具えるまでは施主の法会(ほうえ)に預からない。
四、悟りの智慧を得ないうちは世間的な仕事や交際をしない、
但し、六根相似の位に到達した時は除く。
五、過去世と未来世の中間にある現在の世に於いて修した
功徳は独り己が身に受け、遍(あまね)く生きとし生けるものに施して
全ての人に悉(ことごと)く最高の悟りを得させよう。
この「願文」を読むと最澄はまさに「願文」の通り止観して悟りを得るまで下山しない不退転の決意で深山幽谷の叡山に籠ったことがうかがえる。最澄は結局、十二年籠山しこの事が十二年籠山行の始まりとなった。
比叡山に入った最澄は叡山の東の霊地、今の根本中堂の辺りに小さな草庵を建て、一切経(いっさいきょう)の書写に専心した。そして、最澄は法華経が悟りを開く唯一の経典であると考えて法華一乗を唱えた。
(一切経、釈迦が五十年の間に説教したお経の集大成でおよそ七千巻、大蔵経または一切経と呼ばれている)
延暦七年(七八八年)二十一歳の時、現在の根本中堂の地に草庵を建て、この草庵を比叡山寺と名付け一乗止観院(いちじょうしかんいん)と号した。そして自ら霊木に薬師如来を刻みこれを本尊とした。この年が比叡山開創の年となった。
一乗止観院と命名したのは最澄の強い信念、確信の表れであろう。法華一乗こそ悟りの道であり、止観を重ね身をもって学ぶべき道場にふさわしい名前として、最澄は「一乗止観院」以外考えられなかったのかも知れない。
そして本尊の前に法燈を灯し、
「あきらけく後の仏のみ世までも 光りつたへよ法(のり)のともしび」
「この灯明が、弥勒菩薩(みろくぼさつ)がお出ましになるまで、あかあかと輝きつづけて、人々の心の灯火(ともしび)となりますように。」と詠じ法燈を灯し続けることを願った。
(法のともし火とは、お釈迦様の教えの事。弥勒菩薩とは釈迦菩薩の没後五十六億七千万年後に兜率天(とそつてん)からこの世に下生(げしょう)して仏陀となる未来仏)
この法灯が今も千二百年間消える事無く当時そのままの菜種油をもやし続けて連綿と受け継がれ「不滅の法灯」として現在に受け継がれている。
戦国時代、叡山は織田信長によって一山焼き討ちに遭い、根本中堂も全焼した。この時、根本中堂の「不滅の法灯」も堂宇と共に燃え尽きたが、山形の立石寺(りっしゃくじ、通称、山寺)にこの法灯が分灯されていた。根本中堂が再建されると立石寺の法灯から灯火を迎え入れ再び「不滅の法灯」が灯された。こうして法灯は千二百年間消える事無く灯されている。
(宝珠山立石寺は慈覚大師円仁が貞観二年(八六〇年)に開山し、立石寺の法灯は円仁が開山の際、叡山の「不滅の法灯」から分灯したと伝えられている。又、立石寺は松尾芭蕉が「奥の細道」で「閑(しず)かさや岩にしみ入る蝉の声」と詠じた場所でもある。)
叡山で修行の日々を送る最澄に注目したのは内供奉(うちのぐぶ、宮中に勤仕(きんじ)する僧)の寿興(じゅこう)であった。寿興は最澄の「願文」を読み、その精神の純粋さに感銘して叡山を訪れ最澄と親交を持った。
そして、寿興の縁であろうか、和気清麻呂(わけのきよまろ、七三三〜七九九年、戦前まで和気清麻呂は名和長年、楠木正成と共に三大忠臣の一人に数えられた。)が帰依し、最澄の外護者(げごしゃ、有力な支援者)となった。
和気清麻呂は称徳天皇(女帝、孝謙天皇が重祚(ちょうそ、一度退位した天皇が再び位に就く事)した。)が寵愛した弓削道鏡(ゆげどうきょう)の陰謀(称徳天皇の寵愛を受け、神の託宣と称して帝位に就こうとした)を阻止した人物である。この事件によって道鏡の怒りを買った和気清麻呂は大隈(鹿児島県)に流された。
称徳天皇が崩御し、壬申(じんしん)の乱以来続いていた天武天皇の皇統は絶え、新たに即位したのは天智天皇の孫に当たる光仁天皇(六十二歳の高齢で即位した)であった。
称徳天皇の庇護を失った弓削道鏡は失脚し下野国薬師寺別当に左遷され、和気清麻呂は都に呼び戻された。そして、和気清麻呂を重用したのは桓武天皇(五十代、七三七〜八〇六年)であった。桓武天皇は謀略によって帝位に就いた天皇である。
光仁天皇が即位し当然の事として聖武天皇の娘である井上内親王が皇后となり、井上内親王の皇子、他戸(おさべ)親王が皇太子となった。
山部親王(やまべ 後の桓武天皇)は力量もあり帝位に登る野心はあっても、母は百済系渡来人の後裔である高野新笠(たかののにいがさ)であった。血筋の上からも他戸親王にはかなわなかった。
山部親王を擁立し謀略を巡らしたのは朝廷の実力者である藤原百川(ももかわ)であった。藤原百川は井上皇后が他戸親王の安泰を願って祈祷を行った事を知り、姦計(かんけい)を巡らして井上皇后を罠にはめた。
藤原百川は事実を捻じ曲げ、井上皇后が他戸皇太子を早く帝位に就けたいと思い、光仁天皇を呪詛したとして捕らえ、申し開きも許さず配所に移した。
明らかに他戸皇太子を廃する謀略に陥れられた井上皇后は巫蠱(ふこ、まじないをして人をのろうこと)の罪に問われて后の地位を剥奪され、他戸皇太子も廃された。
そして、山部親王が皇太子に立てられた。邪魔者は消さねばならず、井上皇后と他戸親王は土牢に幽閉され、同じ日に奇怪な死を遂げた。
その後、鼠の大群が現れたり、大粒の雹(ひょう)が降ったり、伊勢、尾張、美濃では風水害があり、地震が起こったりと天変地異が続き、ついには山部親王を皇太子に擁立した藤原百川が急死するに及んで、これは井上皇后の怨霊が祟っているとの噂が流れた。
山部皇太子は七八一年に即位して桓武天皇となり皇太子には光仁上皇の威光もあり実の弟である早良(さわら)親王が就いた。
謀略によって天皇の位に上ったが桓武天皇は二人の怨霊に悩まされる事となった。怨霊を最も恐れていた桓武天皇は即位三年後の延暦三年(七八四年)、怨霊が住む平城宮を捨てて長岡京に遷都する事を勅旨した。(奈良の平城京は元明天皇の和銅三年(七一〇年)に飛鳥の藤原京から遷都して以来、七代七十余年の間、都が置かれた。)
この遷都に際し、桓武天皇は政治に口を挟む奈良仏教に嫌気がさしていたのか奈良の寺院が長岡京に移る事を禁じた。
こうして怨霊から逃れる為に長岡京に遷都したが凶事が続いた。凶事の発端は長岡京への遷都に反対する大伴氏の一派が寵臣の藤原種継(たねつぐ)を暗殺した事件であった。
この暗殺に皇太子の早良親王が加担し、王朝転覆を企てたとの嫌疑を掛けられた。明らかに早良皇太子を廃して我子の安殿親王(あてしんのう 後の平城(へいぜい)天皇)を皇太子に立てる謀略であろう、早良親王は皇太子を廃され、身柄を乙訓寺(おとくにでら、京都府長岡京市、牡丹の名所として名高い)に移された。
早良親王は冤罪(えんざい)であると抗議して自ら十余日にわたり食を断ったが、天皇は許さず淡路に流罪を命じた。こうして、早良親王は護送中に餓死したがそれでも屍を淡路に運んでそこに葬った。
それから数年の内に夫人の旅子(たびこ)が没し、天皇と早良親王の生母であった高野皇太后、続いて皇后の乙牟漏(おとむろ)が没し、畿内に疫病が流行した。
桓武天皇はこれらの凶事が続くのは自ら死に追いやった早良親王の怨霊だと信じ、祟(たた)りを恐れた天皇は平安京への遷都を建言した和気清麻呂の言を入れ、延暦十二年(七九三年)、凶事が続く長岡京を捨て、平安京に遷都する事を勅旨した。
こうして唐の都、長安に倣って平安京の造営が行われた。桓武天皇は造宮大夫の和気清麻呂に案内されて造営中の平安京を度々、視察した事であろう。そして、和気清麻呂から都の鬼門に当たる北東、叡山で修行する最澄の事を聞き知ったと思える。
平安京の造営と同じ頃、比叡山寺では和気清麻呂の喜捨を受けたのであろう一乗止観院の建設が行われていた。延暦十三年(七九四年)九月に一乗止観院が竣工し、比叡山寺において落慶法要が営まれた。この法要の席に和気清麻呂が奏上したのか桓武天皇が行幸され、最澄と桓武天皇との運命的な出会いとなった。
陰陽道に凝り怨霊を恐れていた天皇はこの席で最澄に鬼門封じの祈祷を依頼したのであろうか。桓武天皇が怨霊に悩まされていなければ最澄との出会いは無かったかも知れない。
こうして叡山は鎮護国家の根本道場となり、今も根本中堂で国家の安泰や世界平和を祈る御修法という伝統的な法要が執り行われている。
一介の修行僧であった最澄は寿興に認められ和気清麻呂の援助を受け、ついには桓武天皇の信任を受ける身となった。
桓武天皇の信任を得た最澄は延暦一六年(七九七年)、和気清麻呂の奔走で内供奉(ないぐぶ)十禅師(国家の安泰を祈る宮中の侍僧、定員は十名、よって十禅師と呼ばれた)に任ぜられた。
延暦二十年(八〇一年)、には南都七大寺の高名な学僧を比叡山寺に招いて天台の根本教典である法華経を講じ、同年、和気氏の氏寺であった高雄山寺(たかおさんじ、神護寺)においても法華経を講じ最澄の名声は一気に広がっていった。
名声は高まったが最澄が講じたのは鑑真がもたらした天台仏教の経典を独学で履修した結果を披瀝したに過ぎなかった。
最澄は天台仏教の真髄を知りたいと思い桓武天皇に入唐求法(にっとうぐほう)を願い出た。天皇の特旨を得た最澄は門弟の義真(七七八〜八三三年)を通訳として同行させ、自身は還学生(げんがくしょう、短期留学生)として第十六次遣唐使の一行に加えられた。
この時、空海(七七四〜八三五年)も留学僧(るがくそう、長期留学でおよそ二十年)として遣唐使一行に加わっていた。最澄と空海は身分も違い、乗船した船も異なり、会い見(まみ)える事はなかったであろう。
延暦二十三年(八〇四年)七月六日、肥前(長崎)田浦(たのうら)を四隻の遣唐使船が出航したが途中、嵐に遭い空海が乗った第一船は福州に漂着し、最澄が乗った第二船は寧波(ニンポー)に漂着した。第三船、第四船は難破した。
この頃、中国渡航は命がけであった。第十四次(七七七年)遣唐使節に選ばれた佐伯今毛人(さえきのいまえみし)や第十七次(八三八年)遣唐副使に選ばれた小野篁(おののかむろ)は病と称し渡唐を拒否した事件もあった。因みに最後の遣唐使となった第十七次遣唐使に随行して渡唐したのが天台密教を大成させた慈覚大師円仁である。(智証大師円珍は八五一年唐の商船に便乗して渡唐した。)
第十八次(八九四年)の遣唐使節に選ばれた菅原道真は渡唐の危険と唐の衰退を理由に遣唐使の廃止を建議し、以後遣唐使は廃止された。
福州に漂着した空海は特使と共に長安に向かったが、最澄は弟子の義真(通訳)を伴い長安に向かわず寧波から天台教学を修めるため中国天台宗の一大拠点であった天台山(浙江省)に向かった。
そして、修禅寺の座主道邃(どうすい)から天台に独自な大乗円頓戒(だいじょうえんとんかい)を授けられ、天台法華の法門を道邃と仏隴寺(ぶつろうじ)の行満(ぎょうまん)から受けた。
行満は天台宗を創始した天台大師智(ちぎ、五三八〜五九七年)以来の伝法相承に連なり、この事から最澄は天台宗の第八祖と云われている。
こうして伝法を授けられた最澄は入唐の目的をほぼ達成し、帰国の船が出る僅かな期間を利用して、越州(浙江省)に赴き竜興寺(りゅうこうじ)の順暁(じゅんぎょう)のもとで密教を学び、禅林寺(ぜんりんじ)の翛然(しゅくねん)から禅を学んだ。
最澄は僅か在唐八ヶ月に過ぎなかったが唐渡した最大の目的である天台教学を修め、遣唐使一行が帰国する船に同乗して延暦二十四年(八〇五年)八月に帰国した。
しかし、最澄の庇護者であった桓武天皇は怨霊に悩まされて病の床に伏していた。最澄は帰国早々に病気平癒の祈祷を行ったが天皇の症状は一進一退であった。
翌年の正月、最澄は朝廷に天台法華宗の開立を願い出て、まもなく勅許せられ比叡山寺を本拠地とした。
こうして南都六宗に天台が加えられた。
(南都六宗、法相宗(ほっそうしゅう、興福寺)、華厳宗(けごんしゅう、東大寺)、律宗(りっしゅう、唐招提寺)、三論宗(さんろんしゅう、現存せず)、倶舎宗(くしゃしゅう、現存せず)、成実宗(じょうじつしゅう、現存せず) 南都七大寺(東大寺、興福寺、薬師寺、元興寺(現在の飛鳥寺)、大安寺、西大寺、唐招提寺、法隆寺)が六宗兼学の道場であった)
延暦二十五年(八〇六年)三月、最澄に開立を許した桓武天皇が没し、平城天皇が即位し同母弟の神野親王(かみのしんのう、後の嵯峨天皇)が皇太子となった。たが、平城天皇は健康がすぐれず病に伏し在位僅か三年で退位して嵯峨天皇に譲位した。
嵯峨天皇も最澄を厚遇したが帝が興味を示したのは天台教学ではなく帰国する船を待つわずかな間に順曉から学んだ密教であった。
最澄は帝の意に添うべく密教の講義を行なったが所詮、最澄の持ち帰った密教は本格的なものではなく密教の断片であった。
一方、空海は長安の青竜寺(しょうりゅうじ)で真言正統の第七祖、恵果(けいか)に就いて密教を学び灌頂(かんじょう、受戒の時、頭頂に香水を注ぎ仏の位に就く儀式)を受け大法を授けられた。
足掛け三年に亘り本格的な真言密教を修行した空海は大同元年(八〇六年、桓武天皇が崩御して平城天皇の御世)十月に帰国したが入京の勅が下りず九州に留まった。(留学生は通常在唐二十年であるが空海は三年で帰国したため入京の勅許が下りなかった。)
空海は大宰府に二年滞在し平城天皇の許しを得て入京したがしばらくの間、和泉国槇尾山寺(まきのおさんじ)に滞在した。
大同四年、平城天皇が譲位して嵯峨天皇が即位した。即位した嵯峨天皇は最新の仏教である密教に大いなる興味を示し、密教を学んで帰国した空海を都に呼び戻した。
最澄は空海の持ち帰った密教を知って理解の至らなさを痛感し、弘仁三年(八一二年)十月二十七日、空海が在住する乙訓寺を訪ねた。これが両者の初対面であった。この時、最澄は七歳年下の空海に辞を低くして灌頂を受ける事を乞うた。
こうして、最澄は年少の空海から高雄山寺において灌頂を受けたが、灌頂には三種類あり、結縁灌頂(けちえんかんじょう、縁を結ぶだけの灌頂)、受明灌頂(じゅみょうかんじょう、行者に対し一部の秘密の法を伝授する灌頂)、伝法灌頂(でんぽうかんじょう、全ての法を伝える灌頂)であるが最澄が受けた灌頂は受明灌頂であった。
最澄は不満を持ったがそれでも弟子の礼をとって密教を学び、経典の拝借を願い、当初、空海も快く応じていた。
二人の交友は七年続いたが最澄の弟子、泰範(たいはん、最澄が空海から密教を学ばせる為に空海の元に留めた弟子の一人)が叡山に帰る事を拒み真言の徒となった事、並びに最澄が理趣経(りしゅうきょう)の借用を申し出たが空海が拒絶した事に端を発し両者の確執が昂じて絶縁した。
最澄が借用を願い出た理趣経には一つの例えとは思うが男女の合歓(ごうかん、性交)も清らかなものであり菩薩の境地であると説かれている。空海は密教の真髄を知らぬ者が理趣経を読めば「真言密教は淫らな宗教」と誤解される事を恐れて「理趣経」を秘経とし、最澄の借用を拒絶したのではなかろうか。こうして、空海と絶縁した最澄は奈良仏教(南都)とも論争し対立を深めていた。
当時の仏教は奈良仏教の南都六宗が全てであり、全国に散在する寺院は南都六宗のいずれかに属していた。最澄が開いた天台法華宗は桓武天皇の勅許により独立の一宗として認められたが当時としては新興宗教であった。
新興宗教の通例として天台法華宗にも新しい理念、思想があり、仏教で最も重要な悟りを得る考え方に奈良仏教と大きな相違があった。
旧来の奈良仏教では声聞(しょうもん)、縁覚(えんがく)、菩薩はそれ相応の悟りを得るが同じではない、これを三乗(乗とは乗り物の事)と称し、悟りとは人によって異なるとの立場に立っていた。
(声聞とは師の教えや導きがなければ悟れない人、縁覚とは独りで修行を積んで悟り得るが他に説くことをしない人。声聞、縁覚を羅漢とも称す。菩薩とは悟りを得て衆生を導く仏)
一方の最澄は法華一乗を唱え、一切の衆生はことごとく仏性を有し、煩悩を拭い去る道心が有れば誰もが救われる「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」を説き、奈良仏教の三乗論に対し最澄は一乗論を唱えた。奈良仏教と悟りに至る見解の相違から論争が起こり、法相宗の徳一法師と七年間に亘り一乗三乗の論争を繰り広げた。
論争の最中(さなか)に最澄は大乗戒壇の設立を願い出た。この頃、官僧になるには朝廷が定めた戒壇院での受戒が必要であった。
(受戒した僧を官僧として認める制度で、受戒していない僧を私度僧と呼び正式な僧とは認められない。有名な役行者(役小角)も私度僧であった。)
天台宗には延暦二十五年(八〇六年)年に二人の年分度者を持つことを許され独立の一宗と認められていたが、最澄の弟子が正式な僧になるためには受戒が必要であった。
年分度者とは官費による弟子のことで最澄に認められたのは天台の教えを実践する止観業(しかんごう)一人と密教を実践する遮那業(しゃなごう)一人であった。(最澄は天台課程を止観業、密教課程を遮那業と名付けた。)
そして受戒を受けるには東大寺の戒壇院を頂点に下野(しもつけ)の薬師寺と筑紫の観世音寺の三箇所しかなかった。つまり、最澄の弟子も東大寺の戒壇院で受戒を受ける必要があり、僧になるための資格は、南都仏教が握っていた。
受戒の制も鑑真によって定められた小乗仏教から伝えられた二百五十戒の戒律の儀式で、純粋な大乗仏教の制に則(のっと)っていなかった。
最澄は天台宗に年二人認められている年分度者には南都の小乗戒壇とは違う、大乗仏教に則った大乗戒を授けたいと戒壇設立の請願書を朝廷に提出した。
請願書は三通あり、三通を含めて「山家学生式(さんげがくしょうしき)」と呼ばれている。最初に願い出たのは弘仁九年(八一八年)五月、「天台法華宗年分学生式」を著して大乗戒壇の設立を請願し、同時に叡山の学生には十二年の籠山を定めた。同年の八月に提出した「勧奨天台宗年分学生式」では十二年籠山の修行内容と生活規則を定め、翌年の三月に提出した「「天台法華宗分度者回小向大式」では二百五十の小乗戒に対し、戒を大幅に少なくして十重戒と四十八軽戒を定めた。
最澄の定めた十重戒とは次の様に簡潔な戒律であった。
一、不殺生(ふせっしょう) 殺生をしない
二、不偸盗(ふとうとう) 盗みをしない
三、不婬(ふいん) 色欲を出さない
四、不妄語(ふぼうご) 嘘いつわりを云わない
五、不沽酒(ふこしゅ) 飲酒しない
六、不説四衆過罪(ふせつししゅうかざい) 仲間同士のとがめだてをしない
七、不自讃毀他(ふじさんきた) 自分をほめて他をそしることをしない
八、不慳惜加毀(ふけんじゃくかき) 物も心も惜しまない
九、瞋心不受侮(しんじんふじゅぶ) 怒り、腹立ちをしない
十、不謗三宝(ふぼうさんぽう) 仏法僧の三宝を誹謗しない
最澄の戒律は小乗戒の守るべき戒律に対して自己を律する戒律であった。そして、受戒の方法も異なっていた。南都の受戒は三師七証といって戒師、教授師、羯磨阿闍梨の三師が戒を授け、七人の僧が受戒を証明して認められたが、最澄が奏上した受戒の方法は僧が戒を授けるのではなく、受戒僧は過去の犯した罪を懺悔し仏の前で誓うのである。
最澄は受戒の方法について「山家学生式」に次のように記している。
「一には大乗戒「普賢経(ふげんきょう)」に依りて三師証(さんししょう)等を請(しょう)ず。釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)を請じて菩薩戒の和上(わじょう、師)と為す。文殊師利(もんじゅしり)菩薩を請じて、菩薩戒の和上と為す。文殊師利菩薩を請じて、菩薩戒の羯磨阿闍梨(かつまあじゃり)と為す。弥勒菩薩を請じて、菩薩戒の教授阿闍梨(けうじゅあじゃり)と為す。十方一切の諸仏を請じて、菩薩戒の証師(しょうし)と為す。十方一切の諸菩薩を請じて、同学等侶(どうがくとうりょ)と為す。現前(げんぜん)の一の伝戒(でんかい)の師を請じ、以て現前の師と為す。若(も)し、伝戒の師無くんば、千里の内に請ず。若し、千里の内に、能(よ)く戒を授くる者無くんば、至心(ししん)に懺悔(ざんげ)して、必ず好相(かうさう)を得(え)、仏像の前(みまえ)に於て、自誓受戒(じせいじゅかい)せよ。」
この一文の中に南都の既成概念(形式主義)を打破しようとした最澄の考えが記されている。「戒とは人間が人間に授けるのではない。まして戒を授ける事が出来るほどの悟りを開いた僧が十人もいるはずがない。戒は人間が授けるのではなく仏が授けるのである。したがって、戒を授けるのは人間ではなく仏であり、南都の受戒で云う所の三師七証の戒師として釈迦牟尼仏と文殊菩薩をお迎えし、文殊菩薩に羯磨阿闍梨を勤めていただき、弥勒菩薩を教授師としてお迎えし、三仏を三師として戒を受け、七人の証師として十方一切の諸仏をお迎えし、仏像の前に於て、自誓受戒すれば良い、受戒を指導するのは一人の師で十分である。もし受戒を指導する師がいないのであれば唯一人で仏の前で至心に懺悔して戒を誓え。」と述べている。
このように、戒を授けるのは仏であり、師は一人で十分である。当然のこととして官僧の任命権を握る南都は猛反対した。
南都と論争を繰り返したが最澄の生前には、勅許は得られなかった。戒壇院の創設も叶えられず、最澄は「我が為に仏を作るなかれ、我が為に経を読むなかれ、わが志を述べよ」と悲痛な遺誡(いかい)を残し失意の内に、弘仁十三年(八二二年)六月四日、五十六歳で没した。
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